
日本の人口減少率は、韓国などまだ上がいるとはいうものの、相当に激しい。日本の合計特殊出生率は2023年で1.20であり、これは2.07を下回ると人口減少という数字を遥かに下回っている。これを補うためには移民が必要だという議論がある一方、外国人の急激な増加に対する反発や不安が強いのが現状である。
現実問題として外国人は増え続けており、このままで推移すれば、2030年には外国人比率は3.5〜4.0%程度になると予想されている。2020年の実績が2.2%であることを考えれば、確かに急だ。ただ、イギリスは現在でも14%、2030年には15%だそうなので、全然深刻さは異なる。アメリカでも14.5%が15.5%になると予想されている。そう思えば、今の日本はまだまだ移民に慣れていないし、移民の数にしてもこの程度で留まるはずもなく、もっともっと増える。それも、何倍というレベルで増える。だから、先輩たる欧米に習った制度改革・意識改革が必要だ。
話は簡単である。受け入れに当たっての軋轢に関しては、日本人もある程度覚悟をすべきだし、受け入れた移民への教育の充実や資格認定などといった制度を整備すべきである。受け入れ側に(広い意味での)コストが掛からないなどということはあり得ないのだ。
この「覚悟」の具体的中身とは、文化的な摩擦が起きること、犯罪が増えること、教育にコストが掛かること、などだ。ある程度こちらから働きかけることは当然するとしても、今の生活を全く変えずに移民が一方的に日本に馴染め、というのは、現実として無理なのだ。もちろん全面的に我慢せよという意味ではないが、逆に言えば100%我慢せずに済むなどとは思わないことだ。
少し考えてみれば分かる。日本語がネイティブ並みに話せなければ受け入れられない、現地の文化習慣を完璧に理解しなければダメ、と言われたらどうだろう。これだけで、そのハードルは飛躍的に上がり、ごくわずかしか受け入れられないだろう。結果として、ごく少数の、地元には馴染むが仕事のできない移民が来るだけで、何のための移民なのか分からなくなる。日本が欲しいのは「働いてくれる若者」であって、日本の文化に馴染む者ではないのだ。技術を持ち、仕事をこなし、GDP向上に貢献してくれる人が欲しいのだ。評価基準が間違っている。
クルド人ヘイトや参政党の日本人ファーストは、イギリスでは鼻で嗤われるレベルの「ワガママ」に過ぎない。既に移民は多く日本に入ってきており、建築現場やコンビニなどでは日常的に見かけるようになってきている。中小企業にとって特に、移民はもう無くてはならない存在にまでなってきているのだ。そういう現実を無視していくら吠えたところで、何の解決にもならない。移民はもっと必要だ。その現実が分かっていない。
さて、ある調査によると、日本という国の外国人受け入れの文化的障壁は、欧米に比べて高いのだそうだ。それは単に制度の問題ではなく、社会慣習が違うからだ。その代表的なものは、規範意識の高さだ。社会のルールは、それが明文化されていようが不文律だろうが、また重要なものだろうがよくわからないものだろうが、とりあえず守るべき、と考えられている。これは逆に、ルールを守らないものに対する不寛容につながっている。外国人との摩擦の第一は、だいたいこれだ。
また、日本人は時間感覚に対してタイトだ。電車が5分遅れただけで社内アナウンスがあり、いちいち謝るのは日本くらいだろう。他にも、待ち合わせの時間にも敏感だ。友人レベルはともかく、社会人では5分の遅刻は致命的である。これも広い意味では「ルールを守ることへの固執」と言えるだろう。
日本語教室とか職能訓練とかは、それはそれでやってもらえば良い話である。だがこういった社会規範への固執は、外国人に「受け入れよ」と言うだけではなく、日本人全体に向かって「もう少し寛容になれ」とメッセージを発する(教育を行う)必要があるのではないか。
簡単な話である。2030年に外国人比率が4%になってそれが止まるかと言えば、あり得ない。2040年には10%とか15%とかになっている可能性はあるのだし、そうなれば海外との人の入れ替わりも頻繁になり、間違いなく教育は追いつかない。そういう移民が多い街では必然的に、社会のルールに対する意識はルーズになり、時間感覚も緩くならざるを得ない。受け入れ側たる日本人はそれを甘んじて受けなければならないのだ。
いやダメだ、厳格に管理し教育もするのだ、そうでない人は排除するのだ、と鼻息荒くイキがってみたところで、現実問題としてそれは無理だ。それができるものなら、アメリカでもイギリスでもそうしている。局所的にできることはあるかもしれないが、国レベルではハナから不可能である。
それは単純に規模の問題だ。1万人ならなんとか教育できても、百万人に対して厳格な教育を完遂するのは無理だ。日本語と生活習慣指導まで含めた一人あたりの教育コストを百万円として、年間30万人に教育を施すとなると、その予算は3千億円である。更に教育以外の費用、すなわち奨学金や就職支援、技術実習なども上乗せすれば、おそらく3千5百億円程度は必要だろう。これに対し、現在の外国人対応費はせいぜい数十〜数百億円程度であり、規模が一桁二桁少ない。
つまり、今の百倍の費用を捻出して教育に掛けなければ、その手法は不可能だ。そして、そこまでして教育を施したとしても、やはり数の暴力は生きている。つまり漏れはどうしても一定比率で生じ、外国人が増えるほど人数は増えていく。どうせダメと分かっているのだから、抵抗するのは無駄な努力である。
それよりも、そういう社会になっても回せるように、今から準備すべきである。そちらのほうがよほど建設的だ。それは単純に「時間にルーズになることを受け入れよ」ということではない。例えば、5分の遅刻は許しても20分の遅刻は許されない、といった、「実際の影響の程度を重視する」という発想に切り替えることだ。いつも主張している「量的議論」の一種である。
ルールを守らないことについても、些細なものなら許容し、重要なものは許さない。罰則も一律ではなく、段階的ないしはアナログ的に定める。そのルールは名言し、阿吽とか空気読めとかにはしない。そして最初から、その発想を前提に世の中を構築する。端的に言えば、時間に余裕を持って、あるいはルール違反者がある程度出ることを最初から想定して、計画を立てるのだ。
ルールを厳密に守ることは、その流れ自体を最適にする効果はある。例えば電車の運転時間を厳密に管理すれば、利用者は計画通りに物事を進めることができる。だが、そのルールを守るためのコストは膨大で、効率は極端に悪い。また、ルールを守ることが至上命題になってしまい、目的が疎かになる「手段の目的化」が起きやすい。こういうものはおしなべて「程度問題」であり、片方の極端に行くと効率は悪くなるが、日本はその「片方の極端」にいるのではないかと思う。
例えば、私が子供の頃には停電は結構あったが、現代ではよほどのことがない限り停電しない。停電対策の品質は世界トップクラスだと思うが、電気代は高い。少々の停電ならUPSや発電機などで対応は可能だから、本当にその品質が欲しい人はそういう備えをすることとして、大部分の人は年数回の停電は許容する代わりに電気代が3割安くなる、という世界のほうが幸せかもしれない。
常に「そのルールは何のためにあるのか」を考え、ルール自体よりもそちらを優先する考え方の方が、全体の効率は良くなるし、結果も良くなるのだ。そしてそれらはそんなに難しいことではないはずだ。実際、海外ではそれで回っていて、しかも日本より効率は良いのだ(一人あたりのGDP)。
また、せっかくICTが発達した世の中なのだから、ルールの遵守やその監視についてある程度自動化してしまい、ペナルティも自動で掛かってしまうような仕掛けを考えても良いと思う。性善説ではなく性悪説でシステムを組むことで、簡単にそれは実行可能だろう。例えばゴミのポイ捨ては監視カメラとAIで監視し、顔認識で自動的に罰金を引き落としてしまう、といったものだ。
外国人はそんなもの回避するだろうというなら、日本人だけ回避可能な仕掛けを作るのもよい。例えば医療費は全額支払い、後からデポジットで戻すためにはマイナンバーカードが必要、といったものだ。それはそれでコストだが、一度作ってしまえば後のコストは掛からないと思う。それでも仕掛けをかいくぐってくる外国人は、明確に悪質と認定できるので、追い出してしまえばよい。
これらはほんの一例であるが、ルールの明文化とその程度で問題にするという方法は、日本人にとってもメリットがあるはずだ。ルールにないことを強要してきたらそれ自体がルール違反にできるのだから、裏金やら不文律やら既得権益やらを追放できる。そうした方が、世の中住みやすい。

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