2017年6月1日木曜日

記憶はどこにあるのか


以前、魂は記憶(情報)の塊である、という仮説について述べた。これに関連して、例えば大規模な輸血を行ったときや臓器移植を受けた時などに、提供者の記憶や性格が乗り移る、という現象をよく聞くのだが、この理由について説明ができる可能性が出てきた。
記憶は脳にしかないはずだ、という前提に立てば、これは全て勘違いかウソ、ということになる。だが前提が崩れれば当然結論も変わってきておかしくない。「人間の記憶」という枠を外れて情報がどこに保存されるかというと、あらゆる物理構造にその可能性はある。
コンピュータで使う記憶装置は、電気信号で人間が扱いやすいように仕組まれたものだ。だが情報科学でいう情報とはそんな狭い範囲のものではない。意味があるかどうかはともかく、全ての分子原子素粒子の位置や方向及びその組み合わせは「情報」である。
その99.9999%は意味のない情報だろう。だがそもそもの記憶容量が天文学的であるため、細胞の塊たる臓器や血液内の細胞(赤血球、白血球など)に意味のある記憶が宿るだけの容量は十分にある。
別の投稿「ネットワークの知性」で言及したことから演繹すると、複数の細胞からなる臓器はそれ自身が細胞ネットワークを形成している。特に脳神経のようなものでなくても、細胞同士のつながりに何らかの濃淡があれば、それは記憶素子となり得る。当然それは過去の継続的な刺激によって成り立ったものなので、その生物の経験が反映されているわけだ。臓器によってその種類が異なるとしても、結局は同じ場所に移植されるのだから、記憶も一緒に移植されていることになる。
その臓器は当然他の臓器と連携して動く。脳とも連携する。ネットワークの特性が記憶であるなら、移植された途端に他の臓器とのネットワークが構築され、徐々に記憶が他の臓器(脳を含む)に移動ないしは複製されていくことは十分にあり得る。
もちろんそれは脳細胞のような効率の良いものではないだろうから、ごく一部、または曖昧な情報しか伝わらないかもしれないし、脳に行き着かない情報は言語化できなかったりするから、大部分は「何となく」で終わる。だが稀にそれがうまく適合するケースがあって、そういうものが「臓器の記憶」となる、というのがこの仮説の全容である。
これから更に演繹すると、「体が覚えている」などということも、比喩ではなく、本当に体が覚えていることになる。体を動かしながら勉強するなどというのも、非科学的とは言い切れない。

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