「神の存在証明」というページを読んでみたのだが、論理的な視点では読むに堪えない酷いものだ。だが、それが未だに生きている理由を考えてみると、人間は神の存在を本質的に信じたがっているから、という推測ができる。
人は、未知のものに対する恐怖を持っている。昔は単純に、夜の暗闇がそうだったろう。病気もそうだし、死も理解しがたいものだ。そういったものに心理的に対抗するためには、取れる方法は二つしかない。一つは、その未知を知に変える、つまり知らなかったことを知ること。もう一つは、未知であり且つ味方である存在、つまり神を信じることだ。
これから演繹していくと、未知のモノへの恐怖が強い人ほど神を信じやすい、また科学技術が発達して未知のものが少なくなっていくほど神を信じる人は減っていく、ということが推測できる。
上で「未知」と言ったが、これは必ずしも原理原則が分からないという意味ではない。クモの毒の原理は分かっていてもどこにいるか分からない、何時テロに会うか、戦争が勃発するか分からないといったことも「未知」の範囲になる。これらが確率論的にどうという説明がついたとしても、いざ自分の身に不幸が降りかかった時に「なぜ自分だけが」と思いがちなのが人間だ。ここにも神の登場する余地がある。実際に不幸にあった人が無神論から有神論に転換する、ということは、心理学的にあり得る。
さて、なぜ未知への恐怖が強い人と弱い人が出るのか。単純に過去に恐怖を経験した度合いが多ければこれはあり得ることだが、そうでなくても恐怖を増長する要因がある。それは単純に、人の恨みを買うようなことを多くしてきた、という負い目だ。
前者は単に怯え、後者は不必要に攻撃的になるはずだ。つまり、神を強く信じ、且つ攻撃的な人(国)は、他人(国)を虐待してきた人(国)である、と想像できる。これは一種のマッチポンプ(自業自得)なので、関わり合いにならないことが最も好ましいのだが、どうしても付き合わざるを得ない時には厄介ごとになりがちなので、注意が必要である。
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