2017年5月31日水曜日

個人主義と教養の退行


別項で「本は読むべきか」という投稿をした。このときに思ったのが、社会の教養が低下している可能性だ。
Webサイト、キュレーションメディア、オンライン広告では、パーソナライズ、つまり個人の好みを強く反映する仕掛けが取り入れられている。これは「知りたいことを知る」ということで、広告効果は高くなる、つまり商品を売る人は儲かるし、ページビューも稼げることになる。だが一方、社会的な「教養」は低下する。
ここで言う教養とは、社会が持つ平均的な知識量のことだ。自分が生きていくためには必要ない、だが他のある人にとってはそれが生活の糧である、あるいは心を豊かにする知識があって、そういう知識をお互いが多く知っていることが、社会的な教養が高い状態である、と定義する。逆に、自分が必要な知識以外を知らないことが、社会的な教養が低い状態である。
少し考えれば分かるように、社会的な教養が低い社会は、お互いがお互いを理解しようとしない、不寛容な社会になる。また、社会全体としての文化や科学技術の向上速度は遅くなる。教養が高い社会はその逆だ。どちらが穏やかで健康的な社会であるかは明らかだろう。
教養というのは、自分が興味のない知識でも知ろうとするモチベーションが必要で、これは多分に努力が必要だ。自制心と言ってもいい。つまり、自制心の弱い人が多ければ、社会的な教養は落ちる。また、昔の日本には社会的に平均であろうとする圧力があった。学校では平均的に成績を上げるよう求められ、成人すれば結婚を促され、子供を促され、社会人になれば平均的な出世を望まれる。近所付き合いも濃厚だったし、悪いことをすれば直ぐに噂がたったり、他人の子であっても遠慮なく注意されたものだ。つまり、昔の日本は、(良きにつけ悪しき煮つけ)社会的な教養は高くなる状況にあったと言える。
心理学的に見ても、相手のことを良く知れば知るほど親しみを感じるものだ。だから、相手と仲良くしたくない場合にはその情報を遮断しようとする。これは多分に感情的な行為であり、個人レベルでも国家レベルでも同じだ。一方で、自制心があれば反対意見にも耳を傾けるものだ。つまり、情報を遮断しようとしたり、反対意見を聞こうとしない、ごり押しをしようとするような社会は、社会的教養が低いと言える。
教養の退行は、もちろん為政者によって引き起こされる場合もあるけれども、基本的には社会を構成する人々一人ひとりの自制心の緩みによって進んでいく。CMやニュースはそれでもパーソナライズされていなかったが、近年それも崩れてきた。これが負のスパイラルを描いていないだろうか。近年国際的に問題になっている右傾化、保護主義化、過剰な自尊心は、その象徴と言えないだろうか。

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