社会制度を変えようとする際、抵抗する人たちが一定数出てくるのは当たり前のことだ。だがその中に、「それを認めるとXX制度が崩壊する」という輩が多くいる場合、彼ら彼女らは無視することにしている。
最近の例で言うと、生前退位問題、夫婦別姓問題などにそういう輩がいる。「崩壊」という用語しか出てこないような場合、相手が抱いているのは漫然とした不安であり、根拠が薄かったり個人の思想が背景にあったり、調べる気力や知識に欠け、要はあまり論理的な議論ができない可能性が高い。
例えば夫婦別姓なら、離婚率が増えるだろうとか子供の名字をどちらにするかでトラブルが増えるだろうとかいうのは想像できることだが、では実際にどの程度増えるか(量的議論)をまじめに研究した結果というのは見られない。一方で、今までそれが原因で事実婚だった人が結婚できると考えた時、その人たちは数々の法的な保護を受けられ、安心して仕事や育児ができるので社会に貢献する。プラスとマイナスを合わせてプラスの方が多ければ変えればよい、とするのが本来の議論のはずだ。
新聞などで、特に反対派の意見を読んでいると、そういった視点が一切なく、悲しくなる。更に、そういった発言をする人の多くが、社会的に一定の地位を得たいわゆる「偉い人」であるところが更に悲しい。上は大げさな例だが、会社のルールなども同様だ。結局、よくある「事なかれ」でしかない。
量的議論をきちんとしてみれば、その制度に本当に意味があったのか、どんな意味があったのかが分かる。改革したがる方がエネルギーはあるのだから、(最初は恣意的なものでもよいから)数値を出させ、議論の俎上に上げてやることは、最低限の「偉い人」の義務ではないかと思う。
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