2017年2月7日火曜日

絶対ではない


以前「ゼッタイ」という投稿をしたが、似て非なる話だ。
「100%安全ではない、だからダメ」「そういった(危険な)ことが絶対起こらないとは言えない」という論理展開をする人がいる。量的議論からすると落第なのだが、こういう話に納得してしまう人は多い。無自覚に話している人もいるだろうが、相手を騙そうとして、あるいは(議論のための)議論に勝とうとして(詭弁として)意図的に話す輩もいるから要注意だ。
自動車に乗って、あるいは道を歩いていて、交通事故に遭う確率は0%ではない。平成28年の交通事故数は約50万件で死亡者は3900人、日本の人口を1.3億人とすると、交通事故に遭う確率は3.8%、死亡する確率は0.003%である。人生85年として単純計算すると、一生の間に交通事故に遭う確率は3割、更に死亡する確率は0.3%、となる。
毎日交通事故や火災は起きているし、死亡ニュースも毎日のように出ている。用心していても避けようのない死に方をする人もいるので、他人事ではない。だが、もし遭ったとしても高々一人、家族全員が死んで家系が途絶えるようなことは殆ど心配していない、というのが普通の人の感覚だろう。
一方で火事は、平成27年の統計では3万9千件、死者は1600人。交通事故よりは少ないが、遭った場合の死亡率は高く、また火事は家で起こることが多いから、一家全滅の危険がある。個人的にはこちらの方が怖い。
また、日本の航空機の事故は、2016年で13件。死者数は分からなかったが、大型機の事故ではなかったので数名と推測する。これはもう、充分に安心できる数値だろう。
最初の「100%安全ではない、だからダメ」「そういった(危険な)ことが絶対起こらないとは言えない」という言葉の裏には「幾ら事故発生確率が低かろうとも」という想いが隠れているのだろうが、この世に絶対安全なんてものはそもそも存在しておらず、論者は既に絶対安全でない他のものを受け入れている。つまり、自覚の有る無しに関わらず、この実態は「感情的に嫌いなことの言い訳としての詭弁を吐いている」に過ぎない。別の言い方をすれば、どんなに説明し説得されても、始めから理解し納得する気がないのだ。これでは冷静な議論にならず、議論も刷り合わせもあったものではない。
Wikipediaの「原子力事故の一覧」を基に、「INESレベル」(1990年から試験運用が始まった国際原子力事象評価尺度)の分かっている国別の事故発生件数を勘定してみると、アメリカ・ロシア(ウクライナ:チェルノブイリ含む)3、イギリス・フランス2、他は1に対して、日本は14である。また
によると、原発の数は、多い順に米国(104)、フランス(58)、日本(54)、ロシア(28)となっている。この二つの数字から言えることは、日本の原発は他国に比べて極端に事故発生確率が高いということだ。ここには火力発電所や自然エネルギーの話は出てこない。事故後の影響の広さの議論も出てこない。単純に海外との原発同士の比較において、日本は極端に劣っているのだ。(ちなみにINESレベル不明の数を勘定するとアメリカは10となるが、まだ日本より少ない。また、アメリカの事故には時期的に古いもの、研究施設のものが多く含まれているが、日本は殆どが実用発電所やその付随施設のものだ。)
「原発を止めろ」という議論において、「日本は原発の技術で他国に大きく劣っている」という論調が出てくるのを聞いた記憶はないのだが、(技術力はともかく事故の)実績として大きく劣っていることは、上の数値が示している。まあもちろん、Wikipediaの「日本語版」であるから日本の事故が多く収録されているのだろう、ロシアはいっぱい隠しているかもしれない、などという疑念はあるだろうが、何れも検証可能であるし、推測の域で反論されても反論になっていない。
この(憂うべき)現状を改善するには、この「絶対ではない」族を相手にしてはならない。数値として具体的な目標を立て、合理的な解決策を考えなければならない。例えば事故率の目標は現状の1/100に設定する。決してゼロではない。ゼロにすると「無限大倍」の向上が必要になってしまうからだ。
例えば、例えば配管の点検をする際、1本の点検において漏れが発生する確率が1%だとすると、配管が1万本あれば、1本以上配管漏れが出る確率は100%だ。これを7千本に減らしても、やはり100%である。つまり、配管を減らすことに画期的な効果は期待できない。しかし1本当たりの点検漏れ発生確率が0.001%だとすると、1万本の場合は10%、7千本なら7%になる。これは効果があると言える。
一方で、配管に異常が出た際に他のセンサで検知だとする。センサ1個当たりの守備範囲が百本なら、その百本のセンサだけ点検すれば事足りるわけだ。更に、その配管に異常が出ても、さほど重要な影響が出ないのであれば、点検そのものを省略できる。
こういった「費用対効果」を計算するのに、「絶対ではない」理論は邪魔になる。実際、点検の量が多過ぎるため、点検を現場が勝手に省略したり、軽微な損傷をごまかしたりする、といった事態は発生している。人間は間違える動物だし、上長の圧力に簡単に屈する者もそうでない者も混じっている。そういう中で一定の効果を得るには、建前の全数点検よりもこちらの方がよほど実用的だ。
結局、「絶対ではない」理論は、自分で自分の首を絞めているのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注目の投稿:

ダイナミック租税とその指標

今の法律では、税率は一定の計算式で表されるが、そのパラメータは固定である。需要と供給のバランスによって商品の価格を変えるダイナミックプライシングというのがあるが、あれを租税にも適用してはどうかと考えてみた。 納税者の声をベースにして様々な租税や補助金を自動調節して、どこか一箇所...

人気の投稿: