2017年4月22日土曜日

生きていくための知識の量


生まれてから死ぬまで、人は様々な場面で色々なことを学ぶ。この多くは、その後生きていくための糧になる。ストレートな言い方をすれば、生涯の稼ぎを向上させるのに貢献する。逆の見方をすると、一定以上の知識がないと生きていけない。
野生動物なら自然淘汰、つまり死を持って終結するわけであるが、人間の場合は助け合いの制度があるので生き残ってしまう。それはまともに生きている人の足をも引っ張る。だから、社会における知識の底上げは重要だ。
そこでの疑問は、どの程度の知識がどの程度の稼ぎを生み出すのか、だ。多ければ多いほどよい、という程度のことは分かっても、特定の知識が欠けていることが致命的にならないか、特に効率のよい学習法があるのではないか、教科書に載らない知識や学習をどう評価するか、などとするとカオスになっていく。
知識の量を定量的に測ることは困難だが、不可能と言うほどではないだろう。例えば学習に要した平均時間とか、テスト成績の向上曲線とか、何かしら(精度は悪いにしても)あるはずだ。その前提で、生きるために必要な知識の量はどの程度なのか、それが時代によって国地域によってどう変化していくのかを考えてみる。
ここで、「生きていく」の定義をしておかなければならない。同じ額の稼ぎがある、という定義では不十分だ。国の平均的生活レベルから大きくずれれば、その人は極端に不幸になる。つまり、「幸福度」で計るべきだろう。これにも国民性(人種、性格の偏りなど)が影響するが、これは無視してもよいだろう。幸福度には幾つか指標があるが、最初はどれを使ってもよい。その国における幸福度の平均値をもつ人たちが、どの程度の知識量で生きているのか、というのを命題と定義する。
一般論で考えると、先進国は生きて行くのに必要な教育の量が多く、新興国では少ないのではないか。また、時代が進むほどその量は増えているのではないか、と推測できる。また、グローバル化はこれを加速しているだろうとも考えられる。
この量は、少なければ少ないほどよいはずのものだ。それでもその量が年々増えていくのは、多分に高所得者の向上心や野心が関係していると推測する。
ピケティを引用するまでもなく、国際的に見て、富の集中が起こっていることは明らかだ。その富を生み出す知識や行動力は当然尊敬に値するものであるが、その上位グループ内での競争はハイレベルであり、必要知識量の上昇も早いだろう。その知識は順に下に下りていき、次第に平均的な必要知識量を底上げしていく。
例えば、海で魚を獲るのにも漁業権が必要だし、量も制限されるし、手数料も取られる。農業をしようとすれば農協への加入が必要で、肥料は買ってこなければならず、土地は農地として認められないと高い税金が取られる。それを売ろうと思えば食品衛生法に引っ掛かったり、調理師免許が必要だったり、会社を作ったり、税務署に届をしなければならない。拾ったものを食べれば犯罪になり、つかまってしまう。その手続きも数も増え、その度にカネをとられ、一方でそれを節約する術もある。
別項でも主張したが、平均的な人が一生のうちに獲得できる知識の総量は、時代の伸びほど速くは伸びない。このため、貧困レベルの知識量がどんどん上がっていき、国民の大部分が貧困になってしまうような事態が起きつつあるように思う。
そうならないためには、こういった平均的国民の必要知識量に対し、実際の教育が追いついているかを国が監視し、必要なら教育を強化するようなことは必要だと考える。これは義務教育だけのことを言っているのではない。なぜなら、その知識量が義務教育で収まっているかどうかの議論はされていないからだ。個人的には既にもう足りないのではないかと思っている。
極端な話であることは承知の上で言うが、高校まで義務教育を延ばすか、専門学校や工業高校のような、多少分化した学校に対しても公立の割合を増やし、且つ授業料を無償に近いところまで助成するようなことは、もっと推進してもよいと思う。授業の内容にしても、ビジネスマナーや世界情勢などの実践的なものを、公立でも取り込んでよいのではないだろうか。社会人になった後も、同じように教育の場を安価に提供することは、決して無駄にはならないと思う。

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