以前の投稿「分子マシンと遺伝子」で、生命が単なる科学的現象かもしれない、という説を考えてみた。その際、生命の尊厳や神の考え方などにも影響が出るかもしれない、とは思ったのだが、具体的にどう変わるかを少し掘り下げて考えてみる。
生命(まずは単細胞生物)が奇跡である、という事実は変わらない。ただそれは、単に確率的に低い現象である、という意味である。そして、プリオンやウィルスなど、従来は生命かそうでないかの境目にあったようなモノは、その議論そのものがナンセンスである。魂とか生命とかいうものは全て人間が勝手につけた概念的なものであって、超自然的な、あるいは未知の、神々しい、謎の、その他色々な不確定且つ尊厳性のある言葉で語られるものではない。「それが生命かどうか」の線引きがあるとしたらそれは人間が定義すればよい話であって、線引きをする理由は何でもよい。国なり学会なりが定義すればよい話だ。
更に、その線引きによって何かを差別する行為は非科学的と言える。この説によれば、生命と非生命は科学的には連続的なものであるからだ。これは生命同士の間での線引きでも然りで、代表的には菜食主義や毛皮への反対運動などがそうだ。これらは全て人間の感情を基準とするものであるべきで、そこに科学を持ち込むのは止めるべきだ(絶滅危惧の話は別)。
また、確率に低い現象であったとしても、母数が多ければ確実に発生する。だがそれも数値次第で、過去の地球で本当に確率的にそれが起こり得たのか、つまり母数として十分だったのかどうかはまだ分からない。従って現時点では、それを促進する「神」が必要だったかどうかは不明だ。つまり、まだ神の存在は、現時点では辛うじて否定されない。が、同時に、将来的には不要と分かる可能性もある。
一度生命が発生してしまえば、その後の進化は概ね進化論で説明できるはずだ。そこには魂のような超自然的な存在は不要だし、神も不要だ。魂が不要なら幽霊も霊界も不要、生まれ変わりも不要、その他超自然的現象の多くは不要となる。ここでの不要とは「なくても説明に差し障りない」という意味であって、存在しないという意味ではない。
では心はどうか。ニューラルネットの状態をAI的に分類して、分類Aが「怒り」、分類Bが「喜び」などと定義することは可能だろう。つまり心も超自然的な説明は不要であると言える。
これに反し、例えば生まれ変わりの例として、小さいときに自分も親も知らない、過去の人の情報をペラペラ喋る、という話がある。記憶は感情と同様、神経回路の状態の一種、つまり情報工学で言うところの「情報」であり、その情報量は膨大だ。人類たかが数百億(死んだ人も含めて)の間で膨大な情報が偶然に一致することはあり得ないので、何らかの情報の移動があったと仮定するのが科学的だ。
だが、記憶の移植に関しては研究があり、特定の物質を移植することでネズミの記憶移せたなどという話がある。この研究が進めば、輪廻転生の正体は記憶物質への接触、という話になるかも知れない。つまりあくまで情報が移ったのであって、(超自然的な意味での)魂が乗り移ったのではない。但しまだこれは研究途上であり、確定的なことは言えない。
だが、ここからが面白いところだ。そういった記憶の伝達があるならば、そこにも自然淘汰が発生してもおかしくないし、複数の記憶が交じり合うことも考えられる。そういった記憶物質の溜まり場がある、ということも考えられるし、死んでから初めて記憶が移るとも考えにくい。記憶の溜まり場が「霊界ないしは幽霊」、生死間での記憶の移動が「輪廻転生」、生きている間の記憶の移動が「呪い」「祟り」、記憶の相互作用が「以心伝心」などと各々定義すると、これらの説明が科学的に(しかも勘違いではなく存在することが)説明できることになるのだ。そこには別次元とか、(従来の意味で言う、よく分からない存在としての)霊界が入り込むことはなく、現状の物理的空間内での科学的現象であると説明できる。
つまり、生命が科学的現象に過ぎないと言っておきながら、そこから演繹することで、輪廻転生や幽霊や呪いの存在を科学的に説明できることになるのだ。また、これには「機械(ロボット)は心を持つか」という問題にも答を出すことになる。心とは神経回路の特定の状態のことを言うのだから、レベルの高低があるだけで、今でもロボットは心を持っていることになる。
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