科学的でないことは明らかなのだが、社会の反応の方が気になった例だ。
まず、①これを鵜呑みに信じ、更には子供に教えようとした大人(しかも教師)が少なからず居る、ということが信じられない。また、②この程度のことに目くじら立てて、科学的な視点からのみ反論する人が多く居る、というところが情けない。
これは理科の時間に教えるものではなく、道徳の時間に教えるべきものだ。そして小さな子供に対しては教えず、ある程度物心ついた(これが一目で寓話(=科学的なものではない)であると分かる)年齢になってから教えるべきだ、もちろんそれは寓話であることを明示すべきではあるが、決して教えていけないものではないと思う。
これは高度に心理学的なものなのだろうか。小学生程度ではこれを信じてしまうのだろうか。もしそうなら、教科書の作り方はもっと科学的であるべきで、特に歴史や社会の教科書でウソ(特に近代史)を教えることの方が、よほど罪作りではないか。
自分が教師で道徳の時間にこれを教えるとしたらどうするだろうか。教えさせるポイントは、
- これはもちろん科学的に証明された話ではないし、科学的根拠はない。それでもこれが広まった理由を考えさせる。
- 人が信じたいこと、知らしめたいこと(悪い言葉遣いをしないこと)と合致した話だから。
- 一般大衆にはこの程度の科学的知識がないから。
- 人が科学的根拠のない話を冷静に受け止められず、宗教やオカルトを信じる心を持っているから。
- 無垢な子供を騙して、宗教や特定の思想を広めようとしているから。
- この話からどんな教訓を得られるか、考えてみる。
- よく作られた例え話として受け止め、悪い言葉遣いをしないことを心掛ける。
- それが科学的、論理的に正しい話なのかどうかを見極める知識と知恵を持つ。
- それがたとえ科学的、論理的にウソだからといって一意に否定するのではなく、その裏にある社会的背景や、話した人の心理を察する。
- これを科学的に真実だと信じ込んでしまっている人へどう対処したらよいか、考えさせる。
- 科学的な視点から反論する。
- 無視する、メッセージだけは受け取る、バカにする、・・・
- その相手が先生だったら、親だったら、どうするか。
では理科の時間に教えるとしたらどうだろう。
- この話を証明するには、何が必要かを考えさせる。
- 実験の方法論、データの取り方、思い込みや恣意が入らないようにするための工夫
- 結果の公表の仕方、何を示せば信じてもらえるか
- 一見もっともらしい話が真実かどうかを見抜くにはどうしたらよいか、考えさせる。
- いわゆる「統計のウソ」の話など
- 一見科学を装って相手を騙すにはどうしたらよいか、考えさせる。
- 相手の科学知識レベルを知った上で適切な情報伝達をする方法について、考えさせる。
どうだろう。道徳でも理科でも立派に使える教材になったのではないか。
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