確か「ゆかいな数学者たち」
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(2017/2/26 16:00時点) 感想(0件) |
という本で読んだエピソードだが、数学者たちがパートナーを伴ったパーティーをするとき、数学の話をするのは禁止とすることが多い。パートナーは数学に興味がない人も多く、話についていけないからだ。しかしそこは同じ興味を持つ者同士、ついその話をしてしまう。そこで出てくるのがあるご婦人で、暫く話を聞いて話の切れ目を見つけたとき、すかさず「では、境界ではどうなりますの?」と聞くのだそうだ。そして興味深いことに、数学上の多くの問題について、この質問は適切なものになるのだそうだ。
技術でもこれは当てはまる。変数割り当ての始めと終わりでは挙動が違う、ゼロを含めるか含めないか、ウィルスを仕込む際にはメモリ境界を狙う、沸点凝固点では特別な注意が必要、といったことはよくある。だからプログラムテストにしても機械の動作確認にしても、何かしらの境界付近では注意深くテストをする。
だが、考えてみれば、これは技術に限らない話だ。結婚とか、受験とか、何かしらの大きなイベントがある場合、成人になる前後、納税や控除の適用可否など、人生にも様々な境界がある。境界付近においてはいつも以上に注意すること、というのは人生訓にもなる。
「人生に大事なことは○○から学んだ」というのはよく聞く話だが、実際にはどんなことからも学べるものだ。上の「境界」はその一例だが、これは技術が優れているからではなく、人間が学ぶ様々な知識知恵はどんな分野にもちりばめられていて、技術が得意な人は技術からそれに気付く、芸術が得意な人は芸術から気付く、というだけの話だ。
ただ、その濃淡はあるかもしれない。数学はそのベース人口が大きいから、人生訓になりうるものは多数仕込まれているだろうが、競技人口が世界中で千人しかいないスポーツで同じ量、同じ質のことが学べるか、というと怪しいものだ。つまり参加者が多い方がその濃度(あるいは数)が高く(多く)、より効率的、あるいはより高みを望める、と言えるのではないだろうか。
この原理から演繹すると、参加人数が小さい○○から学んだ人は、人間力レベルが低い可能性が高い、ということになる。スポーツなら競技人口はおおよそ推測できるから、それに比例(ないしは相関)することは期待してよいし、廃れ行く職人芸なようなものにはそういうものは少ないと推測され、他の分野の人から見たらビックリするほど非常識・非効率なことをやっているということもあり得る。
もちろん、その○○が人生の全てであるという人は少なく、一般的な社会人としても生きているはずだから、一定の基礎は含まれていて然るべきではあるが、確率論的視点からするとそうも見れる、ということだ。
これに対して、まずその世界での○○のレベルを上げるためには、別の世界との交流が必要であること、また逆に、他の世界から○○に知恵知識を取り込むことで、その世界の第一人者になれる可能性が高いこと、というのは考えられる。
趣味は一つより二つの方がいい、友達も多い方がよいし、できれば興味や人種、性別、国までも違っている方がいい。勉強にしても本を読むことにしても、好きなものだけに集中するのではなく、たまには嫌いなものにも触れてみる。知識人は概ね実践していることだろうが、ぼやっとした人生訓ではなく、技術論としても論理的な根拠はある、と言えるのではないか。
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