2017年7月3日月曜日

人工淘汰


植物でも動物でも、品種改良は行われている。これは人間の都合で自然淘汰を促進しているという意味で、「人工淘汰」である。遺伝子操作は、程度が画期的に違うけれども、同じことをしていると言える。では、改良前の植物や動物が絶滅してしまっても良いのだろうか。

外来種の侵出を防ぐとか珊瑚の保護とか、人類は一方で(弱い)生物を保護し、他方では耐性菌や品種改良で(強い)生物を生み出している。まあ耐性菌は生み出そうと思ってやっているわけではないだろうけど。これに矛盾はないか。

人類が絶滅させるかどうかは別にして、特定生物の絶滅は恒常的に起こってきた。だがそれは悪いことではない。そもそも「悪い」というのは人間の考えることであって、自然淘汰に良いも悪いもない。自然現象だ。そこに人間が絡むと、かくもこう面倒になるのか。
外来種の侵出で絶滅するような生物は絶滅すればよい、とはならないのだろうか。絶滅するからにはその生物は弱いのだから、強いものが生き残るのに何の不都合があるのだろう。ノスタルジーだけでは生きていけないのに。絶滅にしても、保護にしても、理由はあくまで人間の都合に過ぎない。学問的に貴重、可哀想(な容姿、振る舞い)、それでいいのか。

今まで絶滅してきた生物は、弱いからこそ、環境の変化に耐えられないからこそ、絶滅した。これを保護したところで、何れは動物園でしか生きられなくなる。自然保護区だって意味は一緒だ。学術的、ノスタルジー的価値はあるにしても、もはや生きているとは言えない。だんだん環境がその生物にとって悪くなっていき、そのうち動物園のガラスの中にでも閉じ込められて、生き延びさせるコストも増大していく。そのうち諦められて、遺伝子サンプルを回収して終わり、となるのではないか。

なぜだんだんコストが増大していくのかと言えば、周りの生物が進化するからだ。そしてそれは人類にも当てはまる。人間は、生物としては地球上最強というわけではない。むしろ猪程度の動物にも劣る。それを補ってきたのは知能なのだが、それが更に生物としての強さを弱めている。

生物としての強さと知能でどちらが重要かと言えば、今の時代はもちろん知能だ。だが、これも程度問題で、自然淘汰が発生しなくなれば、生物としての強さはむしろ退行してしまう。この考えを極端にしたものが優生学だと言える。

20世紀の優生学は殺戮や断種に走ってしまったため反発を買い廃れていったが、遺伝子操作が発達することで再度復活する可能性がある。古い人種は放っておいて、新しい遺伝子の人間を増やす、という方向性だ。単純な話、病気になりにくい体というのは望まれるもののはずだ。ダウン症候群のように比較的数の多い遺伝子の病気には特に注目が集まるだろう。

ゲノム編集で筋骨隆々となった牛を見たことがあるが、人間にも類似の願望を持つ人たちが存在する。ボディビルダーだ。運動選手がステロイドの誘惑に負けるのと、本質はそう変わらない。つまり、その技術が簡単になるにつれ、そういった輩が少しづつ出てくることは避けられないだろう。

バイオハザードのような化け物が出てきて暴れまわるようなことは考えにくいが、例えば風邪を引きにくく、耐性菌にも強く、健康寿命が長く、スタイルがよく、ギリシャの彫刻のような美男美女ばかり、それらは全て遺伝子操作によるもの、などという人種が出てこないとも限らない。

ただ、性格がよいとは限らない。生命として生き残るためにはある程度のズルさ、凶暴さも必要だからだ。積極的な殺戮をしなくとも、例えば政策やビジネスで圧倒して旧人類を貧乏にしてスラムに追い込む、ようなことは可能だろう。

つまり、人間同士でも淘汰はあり得る。人類の中で、「優しい(弱い)」種族が絶滅(に近い状態に)させられた事例は沢山ある。ネイティブアメリカン、アボリジナル、日本でも東北やアイヌ、沖縄で似たようなことが起きている。そのうち、遺伝子操作された人類とそうでない人類の戦争になり、前者が勝つような事態も起きるのではないか。(戦争も広い意味で「淘汰」だと言える)

そのうち、人類は「エイリアン」そっくりになるのかもしれない。

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